◆旅シリーズ 織田2万石・旧小幡藩

  • 2020年11月30日
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  • 自然と旅
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    ★ 織田氏と旧小幡藩

 群馬の西上州に所在する稲含山(標高1370m)に登っての帰りに甘楽町小幡へ出た。同行した友人によれば、小幡は江戸時代初期織田信長の二男織田信雄(のぶかつ)が2万石の所領地だった。織田氏は初代信雄から織田信富(のぶよし)まで七代152年つづいたという。

 小幡藩初代の藩主信雄は父織田信長が明智光秀に京都・本能寺で討たれた後は波乱万丈の人生を送っている。

  群馬に移住してからその友人と再び小幡の町を訪れた。小幡には小幡陣屋といわれる小幡藩の藩邸があり、隣地には信雄築造といわれる庭園「楽山園」がある。初めて小幡の町を訪ねた時は、楽山園は今ほど整備管理はされてなかった。また、小幡藩織田の菩提である小幡山崇福寺にある織田家代々の五輪塔の形の墓石も山裾に取り残されて風雪に耐えているようだった。友人によれば、織田家再興ではないが、今日の小幡の町の基礎をいろいろな形で築かれた織田氏への恩に報いるため、町おこしの一環として整備されていくだろうと語っていた。

  時代を振り返ると、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代の流れの中で、ようやく戦乱のつづいた戦国の世がおわり、徳川家康が江戸の地に幕府を置いてから戦さのない平和な時代が到来した 織田信雄の人生は、父織田信長が京都・本能じで明智光秀に討たれてから大きく変わりはじめる。兄信忠の後継者となることを期待したがそれもかなわず、尾張・伊賀・南伊勢の約100万石の領地所領で終わった。

 その後の信雄は、秀吉についたり、家康と同盟を結んだりしてそれなりの時代を生き抜いてきたが、戦乱の世を生き抜く頭領としての才覚に優れず、秀吉・家康の後背を仰ぐしかなかった。そのような信雄は清州城を改修し、秀吉の小田原攻めで伊豆韮山城攻撃に参戦し苦戦しながら武勲を立てた。秀吉は戦後の論功行賞で、父祖の地を離れたくないと家康の旧領への移封を拒否したため秀吉の怒りを買い改易され、下野烏山に流罪となり、出家して常信と号して日々を過ごした。

 信雄は、下野烏山から出羽秋田・伊予に転々と流され、家康の仲介で流罪を赦免となり、大和国内に1万5千石を領した。信勝は秀吉の朝鮮攻めには兵1500人で肥前名護屋城に着陣し、それをもって信勝嫡男秀雄に越前亀山に5万石が与えられた。

 秀吉没後、関ケ原では中立の立場をとり、大阪冬の陣では徳川勢へ転身したことから家康をたいそう喜ばせ、豊臣滅亡後大和国宇陀郡(松山藩)・上野国甘楽郡(小幡藩)などに5万石が与えられた。織田家の小幡藩の始まりである。

 信雄は、四男信良に上野小幡藩2万石を分知して京都に隠居して悠々自適の日々を過ごす。その間、徳川三代将軍家光から江戸城の茶会に招待されたりして、京都北野で72歳の生涯を閉じる。大和国宇陀の松山藩の領地は五男高長が相続して織田家は江戸時代を生き抜いていく。

        ★ 織田・小幡藩は七代続く

 織田小幡藩は、1615年(元和元年)に1万石で入封していた先代水野忠清に変わって織田信雄が2万石を与えられて入封して、安定した藩政が行われるようになる。

 入封した頃は下仁田街道の福島宿に陣屋を構えたが、1642年(寛永6年)の3代信昌の代に小幡への移転が決まり、1642年(寛永19年)にようやく小幡陣屋に藩庁を移転して名実ともに小幡藩となる。

 小幡藩の初代藩主は織田信雄で、2代織田信良・3代織田信昌・4代織田信久・5代織田信就・6代織田信右・7代織田信富・8代織田信邦と1615年(元和元年)から1767年(明和4年)まで出羽高畠藩へ移封になるまでの152年間小幡藩を治めた。 

 織田小幡藩が出羽高畠藩へ移封となったのは小幡藩の家老吉田玄蕃が明和事件に関与し、小幡藩の処理の不手際が原因とされた。

 明和事件とは、兵学者であり儒学者であった山形大弐が尊王思想を掲げる一方で、幕府転覆の謀議に8代信邦の家老吉田玄蕃が加担したことやその処理に対する内紛と、その処理などの詳細を幕府に報告しなかったことなどにより、信邦の養子織田信浮(のぶちか)が出羽高畠藩2万石に移封されるまでつづいた。移封後の小幡藩には松平忠恒が入封してつづいた。

  織田信浮が小幡藩から出羽高畠藩2万石に移封されるが、出羽高畠藩の所領の大半が天童であったことから出羽高畠藩3代織田信美(のぶかず)は、高畠藩の陣屋を天童に移すことを幕府に願い出て許可されると陣屋を天童に移し、以後出羽高畠藩から天童藩に変わり、幕末の織田信敏まで織田家はつづく。天童藩の初代藩主は織田信邦・2代織田信浮・3代織田信美となる。幕末最後の藩主織田信敏は新政府で藩知事となるが廃藩置県により廃絶し、天童県は山形県に編入される。

 なお、織田家の祖先にあたる織田信長は、新政府(明治政府)の計らいにより神号を下賜され、舞鶴山上に建勲神社が建てられたが、その後京都船岡山頂に移される。

     ★  織田氏築造の庭園”楽山園”

 楽山園は、江戸時代初期に小幡藩の陣屋(藩邸)の西側に、織田氏によって築造された風光明媚な庭園です。昆明池を中心に池の周りに築山や茶屋を配するとともに、周辺の山々を借景に持つ池泉回遊式の庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があるといわれています。取水口は、雄川」(おがわ)堰一番口から小堰をめぐり、江戸時代と変わらぬ流路で昆明池などに流れ込んでいます。

 「置石」の置かれた池を中心として「中島」や「築山」を築いて、起伏のある地形を造り出し、庭園全体が見渡せる高台に建てられた、カヤ葺き・庇がコケラ葺きの建物で、藩主が休憩したり庭園の景色を楽しんでいたという「梅の茶屋」や、全国的にも珍しい五角形の形をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配して、それらを巡る園路にも工夫を凝らしているのが特徴です。

 また、借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川を挟んで、紅葉山・南方の連石山・熊倉山などの山並みを借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は「庭園美」の極みとまでいわれています。

 さらに、複数の茶屋を配していることから「織田氏と茶事」との関係をも深く伺うことでき、歴史的・文化的に高い価値がある庭園です。(群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、国の名勝に指定されています)

     ★  雄川堰(おがわぜき)

 旧小幡藩(甘楽町小幡)の中央を流れる雄川堰は、稲含山を源流とする水は水量が豊富で、清流は滔々と流れています。この雄川堰がつくられたのは織田小幡藩となった頃といわれています。豊かな水は、住民の飲料水や生活用水、農作物や水田などの農業用水に利用されています。

 雄川堰を流れる水は、日本名水100選に選ばれているほか、世界かんがい施設遺産にも選ばれており、今でも小幡の人々が年3回の雄川堰の清掃を行って清流を住民で守っています。

 雄川堰には流れに沿って桜並木がつづいており、春の桜まつりには桜の観賞をする人々の頬が桜の花色で染まってしまうほどの美しさを披露してくれます。

 雄川堰の水質はアルカリ性ともいわれBOD(生物化学的酸素要求量)は常時2mg/1を下回っていることから、汚濁の少ない良好な状態だといわれています

 雄川堰の水は、小幡陣屋完成によって3ヶ所に取水口を設け、陣屋内の生活用水や庭園引き込まれ利用されてきており、今でも楽山園などの水には欠かすことのできない貴重な水源の一つとなっています。

    ★  織田宗家七代の墓と崇福寺

楽山園から南に約2kmほど行くと織田公公園があり、その公園内に織田氏七代の墓と菩提寺小幡山崇福寺があります。織田家の菩提寺は3代まではさらに南に行った曹洞宗の宝積寺でしたが、4代信久のとき廃寺となっていた臨済宗妙心寺派の崇福寺を再建して移しました。織田家の父祖織田信長の菩提寺は岐阜市にある臨済宗崇福寺です。

 小幡山崇福寺は二度の火災に遭い、本殿は焼失して寺跡として広場になっていますが、この寺跡の南側に小さな本堂と位牌堂が再建されています。二度の火災は、1758年(宝暦4年)と1871年(明治4年)で堂宇が全焼しましたが、幸いにも位牌は焼失を免れ、小幡藩祖織田信雄から7代の織田信富までと、移封先の出羽高畠藩の2代織田信浮・3代織田信美、さらに大和松山藩2代織田高長の位牌が揃って安置されています。小幡藩7代の墓は、以前はむき出しで野ざらしのようになっていましたが今は篤く供養されています。

 現在は、本堂とともに五輪塔形のお墓も一戸一戸の御霊屋に安置されています。小幡山崇福寺の歴史の中で、崇福寺正面に「下馬」の碑があり、当時勅使門には後醍醐天皇が直筆した大荘厳城の勅額があり、崇敬の念から、ここから馬を下りることに決められていたそうです。

 

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